経本と聖書。二冊を手にする副住職が思うお葬式とは

レッド

written by 五十嵐清美

妙建山 本立寺

踏み出したきっかけは、忍び寄る危機感

——樹木葬や御首題など、新たなことを取り入れているのはなぜですか?

現状を変える必要があると感じたからですね。実は綺麗な話ではないんです。

ただ単に「このままだとお寺がやばいかも」という危機感しかなかった。きっかけはそれだけです。この先、このまま放置しておけば、お墓も檀家さんも確実に減っていって消えてしまう。船底に穴の開いた船のように沈むよね、という状態でした。

何回シミュレーションして頭の中で考えても、プラス要素がゼロだったんです。このままでは確実に沈むだろう、だから何か手を打たねばならない。「経営上の策」として始まったのが最初でした。藁をも掴む思いでやり始めたのが、樹木葬だったんです。

手段としてではありますが、樹木葬を導入したことによって、大きな変化があったことは間違いありません。それはまるで新しい「ワクチン」のように、お寺に変化をもたらしてくれました。

1つ言えるのは、変えたくて変えたわけではないということなんです。

とりあえず何かやらないとまずい、がスタートラインで、先に樹木葬という実績ができた。そのおかげで、その後の出来事やご縁に出会えたのだと感じています。

それに私、繰り返しの作業、つまりルーティンがものすごく苦手なんです。何時に起きて、決まった支度をすることすら「あぁ、つまんない」って感じで、窮屈に感じます。毎日歩くルートすら変えたいくらい。

だからこそ、新しい樹木葬を取り入れて、様々なリクエストをいただいて、お応えしていける体制が楽しかったんです。「こんなことできない?あんなことできない?こうしてほしい」って。私たちも臨機応変に対応していくことで、形を成していきました。

 


前例がないなら、やってみるしかない

——樹木葬を始めるにあたって、一番葛藤したことは何でしたか?

樹木葬というのは、宗教不問・宗旨宗派不問なんですよね。なので、キリスト教の方のお葬式を行ったことがあります。ちょうどコロナ禍で、教会でお葬式ができなかった、断られてしまった、という方がいらっしゃいました。ご遺体の搬送すら難しかった時期で。うちのお墓を選んでくれたんです。

ご自宅から近いところをお探しになっていました。お話を聞かせて頂く中で見えてきたのは、お葬式についてでした。「実はまだお葬式をあげられていないんです。母はキリスト教徒だけど、自分は違うからお寺でもいい。お寺で供養やお葬式、ご法事はできないか?」と。

しっかり弔いたいという、そのお気持ちが何より素敵ですよね。「やってみましょう。」ということで、私は学生時代の聖書を引っ張り出しました。

突飛なリクエストに見えても、実はこれ、結構切実な問題だと思っていて。親の宗教宗派に左右されずに、自分たちの意思で決めてもいいよね、と。その葛藤や気持ちを汲んで叶えて差し上げたかった。牧師さんや神父さんを呼ぶのは難しくても、仏式であればお葬式はできるのではないか。

ただ、ご法事には長年の伝統で決まりきった流れ、次第(プログラム)があるわけです。ところが、キリスト教徒に合わせたものにしたい。キリスト教にはお経もないし、どうやってあの世へ送るか思案しました。そして、ご法事の設計そのものを書き換えようというところに、行き着いたんです。

イメージとしては、Windowsなのに「Macを動かしてください」と言われているようなもの。OS自体を調整する必要があります。例えば、説法の代わりに聖書を読み上げたり、賛美歌を入れる。でも、どこに何を混ぜるといいんだろうとか、聖書のどこを引用するのが良いのか、と悩みました。聖書はこんなにも分厚いので、普段なら日蓮聖人が書かれた一節を使いますが、どう置き換えるかすら正解がない。

そこで、ご遺族と私のルーツがある青山学院大学のスクールモットー「地の塩、世の光」(マタイによる福音書5章)を使ったんです。カトリックとプロテスタントは微妙に違うので、そのニュアンスも考慮しつつ調整しました。

——それは、相当な労力ですよね。

実際のお葬式は1時間ほどですが、準備、設計にはその何倍もの時間を要しました。「最終的にこれをやりたいんだ」と案に対してのお考えを聞くために、大学に連絡しました。神学部の教授にまで繋いでもらい意見を求めたりしました。しかし、前例がないから最後は「ようしやってみるぞ!」と腹をくくりました。

結果としてうまく着地したから良かったものの、社内でも不安の声があがっていました。やって大丈夫なの?って。でも、1回前例ができてしまえば、意外と馴染んできて、今ではご法事を施主さんや、故人の状況に合わせて、カスタマイズすることが通例になりつつあります。

それだけの労力をかけてでも、やってあげたいなと思ったんですよね。それに、できるだろう、とも思った。今やっておかないと、後で後悔するだろうなという気持ちもあったんです。

 


「信仰がないんですけど、いいですか?」

——実際に相談へ来られる方は、どんな悩みを抱えていることが多いですか?

実は、意外とシンプルな話で。お墓を買うときに、「運転免許は返納してしまったので、自分1人で自由に動ける範囲で」ということだったり。「後継ぎがいないけど大丈夫ですか」といったお悩みも、ありますね。

あとは、「信仰がないんですけど、いいですか?」と聞かれることですね。私たちは広く受け入れておりますので大丈夫ですよ、と答えると安心してくれますが、ご本人たちは意外と後ろめたく考えてしまう。お寺の敷居が高いと言われるのは、そこなのかもしれません。

これ、コミケやアイドルのライブなんかも同じかもしれない。熱量が違うからついていけないかも、という感覚。そういう熱量を体験したくて、全然聞いていなかったアーティストのコンサートに、最近では意識して行くようにしています。山下達郎さんとか、槇原敬之さんとか。知らない世界がそこには広がっていて、一瞬圧倒されます。馴染みの人だけが知っている暗黙のルール。新参者と古参の間にできる、熱量のギャップ。熱量が高いサークルに入るときの(大丈夫かな・・・)という、あの感じ。

西洋文化圏で言われる”信仰”は、信じて仰ぎ見ると書くので、いわば上下関係のような空気ができます。契約から始まる文化でもありますよね。仏教で大切にしているのはそうではなくて、仏様やご先祖は信仰の熱量にかかわらず、そこに存在するもの。だからご心配なさらなくて良いですよ、とお伝えしています。うちの考え方・やり方を説明すると安心していただけます。そうしたお悩みをお持ちの方にとって、私たちが時間をかけて練り上げてきた樹木葬はぴったりだと感じてもらえるみたいです。

——「お寺は敷居が高い」という印象については、どうお考えですか。

ぶっちゃけ高いと思います。私だって、寺の中の人間ですけど、会社を退職して、戻ってきたときに凄く感じました。わけ分かんねえな、って(笑)。

どこも一緒かとは思いますが、お寺って「うちはこう、仏教はこう、この宗派はこう」という矜持がありますね。それがときには武器になりますが、敷居の高さと受け取られてしまうことがあるのではないでしょうか。みんな親切で、お節介な人が多くて、知らないことを教えて差し上げねば、という熱量が強い。だから悪気はないんだけど、その熱量の高さに驚くこともあります。

お坊さんの世界にも、明文化されていない暗黙の了解がすごく多い。私はこうしなきゃいけない、こう振る舞うべき、というルールが苦手でもあるので余計に戸惑いました。

こんなお坊さんが迷いながらやっておりますので、お寺に来て手を合わせたい、誰かを供養したいという気持ちがあるだけで100点満点、パーフェクトです、とお伝えしたいんです。ラフな格好でも「よく来てくださいましたね」って。

 


アップデートではなく、ブレイクスルー

——副住職にとっても、チームとしても、アップデートを重ねられてきたんですね。

そうですね、正直アップデートしているというイメージはないんです。アップデートと言うと、前のものが旧バージョンになってしまう気がして。これまでの慣習ややり方を否定するんじゃなくて、こういうやり方もあっていいよね、というお寺の多様性を、提示しているというか。強いて言うなら、アップデートより、ブレイクスルー。こういうやり方で突破しました、という感じかな。

キリスト教の方のお葬式にしても、外国の方の供養にしても、根っこは同じなんです。韓国人のご主人を亡くされた奥さまがお越しになった時には、最後の挨拶やお経の一部を韓国語でお唱えしました。韓国語訳をもらって、発音を練習して。凄く喜んでくれました。中国の方のときも、中国語で挑戦しました。

海外旅行先、あまり日本人がいない地域に出向いた時に日本語が聞こえたら、ちょっと嬉しいじゃないですか。それと一緒で、異国の地で亡くなってしまったときでも、自分の母国語が聞こえてきたら嬉しいよね、と思ったんです。少しでも母国に近づけて差し上げたいなと。

供養という字は、「人が共に養う」と書く。結局、供養は循環して私たちの元にも戻ってくるはず。これが供養するということであり、お寺というものを、スタッフにも見せたかったんです。私たちが新しいお寺として行きたいところはこうだ、と。口だけで言うんじゃなくて、実際にやって見せなければ絶対に伝わらないですから。そして、そうしないと私たちも続けてはいけない。お盆やお彼岸に家族で参りに来て、キャッキャ言いながら、時に親に怒られたりしながら手を合わせて、笑顔で帰っていく。1人で来ても穏やかになって戻っていく。そういう平和な景色そのものが、次の400年後も残ってくれればいいなと思います。

亡くなった人の記憶を繋いで、私が授けた戒名や、供養に携わった人たちの名前が——キリスト教の方のことも含めて——400年後も残っていて、名前が呼び続けられて、記憶が引き継がれていたら、それは凄いことだし、嬉しいですね。そうなればいいなという想いが今の、お寺のチャレンジにも繋がっています。

——伺っていると、決まった正解を再現するというより、その場で合わせていく感じですね。

そうですね。音楽で例えるとクラシックとジャズですね。クラシックは数百年前の完成された正解があって、いかに忠実に再現するか、という世界です。一方でジャズは即興で合わせながら、現場から生まれてきたもの。私もジャズが好きなので、マインドが通じるところがあったのかもしれないですね。

ジャズの世界では、チャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンが凄まじい努力を経て、現場でがむしゃらに演奏してきたものを後世が体系化していきました。先にあるのは、演奏なんですよ。演奏して形が出来上がった後に、理論が整理された。そのチャーリー・パーカーのジャズは、現代において古いか?不要か?というと、全然そんなことはなくて、今も愛されている。ジャズはそうして受け継がれて、多様性を帯びながらどんどん変容していくんです。

私たちも型にはまらず、その人にとっての一番良い供養とは何か?を考え続けて、変化し続けていきたいと思っています。

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  • hatena